なぜ、建築学部を選んだのか?
現在息子が高校1年生で野球を頑張っているが、3年になるころには進路を決めなければならないはずだ。私も、高校2年生までは体育会系の部活動だったので、何も将来のことは考えずに毎日、汗水流しながら部活動に励んでいた。高校3年生の時、進学校ということもあり就職する友達はほんの一握りしかおらず、進学という選択肢しかなかった。しかも、まだバブル絶好機でなぜか羽振りがよさそうという安易な理由で建築学部を選んだ。この安易な決断が私の人生の大半を決めることになるとは思わずに・・・
しかし、大学を出るころにはバブルがはじけて就職難になる。2年前までは引く手あまたで先輩たちは大手のゼネコンなど、すんなり入社できていたのだが、何十社も面接を受けても合格通知が届かない。1次面接で落ちてしまうことも当たり前にあった。地元に戻らず東京で就職先を探したことは、まだ交通費や移動の時間を短縮できたので有利に働いたのだが,今思えば最初の挫折であった。精神的にボロボロ。はっきり言ってもう決まれば何でもよいとも思った。
結果、大学時代の友人の紹介で300人規模のゼネコンにいとも簡単に入社できることになる。東証2部上場の歴史のあるゼネコンらしいが、こんなに簡単に入社できたことをもっと疑うべきであった。入社前研修があり、そこで同期の存在を知る。大学、専門学校など30人くらい同期がいた。全社員の1割くらい採用している。会社の人数比率からしたらかなり多いと思う。これも今思うとかなり怪しい。でもそんなことに気付かずに、入社前には入寮もしていた。同期の仲間たちと将来のことなど夢語っていたころは楽しかった。”いい会社に入社できた”。とこの頃までは信じて疑わなかった。
4月にいよいよ入社となり新入社員は東京、神奈川、千葉、埼玉にある現場に配属になる。この会社は新築分譲マンションの施工がほぼ9割を占めていた。約5億~10億くらいのマンションを30~40現場くらい請け負っていたという記憶がある。私は新木場にある60所帯くらいの中規模マンションに配属された。そこには40代の所長と、20代の主任、そして70代の嘱託のおじいちゃんが配属されていた。配属されてその日のうちにメンバーの仲の悪さに気付いた。特に40代所長と20代主任の中が最悪だった。
余談だが私の父親は公務員みたいなものでほぼ5時に仕事が終わり6時には帰宅してくる。そんな父親を見て育った私はかなりの衝撃を受けることになる。満員電車に長時間通勤。そしてかなりハードな肉体労働に超ブラックな長時間労働。第2の挫折だ。学生からのギャップがきつい。やっぱり社会人は甘くない。これから働く学生は、ここはかなり覚悟しておくべきだと思う。勤務時間は、8時から21時くらい。でも新入社員は7時から22時くらいまで帰れずに当然、土曜日や祭日も仕事もほとんど休めない。7階建てのマンションを日に何十回もセメントもって駆け上がる毎日。コンクリート打設の日は絶対ずらせないため、支度が途中でも打設できるところから打設して、ほんと秒単位の仕事。肉体的にも精神的にも相当きつい現場でした。おかげでこのころは、細マッチョで自分史上最高の体つきに仕上がっていましたよ。
何度も辞めたいと辞表出そうかと思ったりもしましたが、作業していただいた職人さんに救われたな~。型枠大工、タイル屋、左官屋、鳶、土工、色々な職種を取りまとめるのが監督の仕事。当然、専門的なことは職人のほうが詳しいに決まっているし、年上ばかり。「これをやってください」とお願いしても「ちっ」って舌打ちされて最初は全然馬鹿にされちゃってるし。でも東京に就職して何も成果を出せないのも嫌だったし、できることからコツコツと。とにかく必死に、何度も失敗して歯を食いしばって、この現場だけは完成までやり遂げて見せる。って思いで仕事をするしかなかった。そのうちに段々と職人とも会話ができるようになってくる。最初は土工のおやじ達と仲良くなって、気づけば土工のおやじ達のリーダーとなる。「監督さん。言われたこと終わったから次は何やろう!」なんて言われると嬉しくて、嬉しくて。おそらくそういった些細な喜びが周りにも影響するのか、段々ほかの職人とも打ち解けてきつい仕事もみんなで頑張れるようになりました。
ゼネコン1年生諸君。自分の体験談は30年も前の話ですが現在もさほど変わっていないと思います。最初は肉体的にも精神的にも相当きついです。でも足場が取れる瞬間の感動や入居してくる家族に感謝されるときなど、やりがいも相当あります。特に最初の現場は環境の違いに悩まされる1年になると思います。私もこの体験は今でも生かされております。自分にできることからコツコツと頑張る。頑張っている姿は周りに必ず好影響を与えることを覚えておいてくださいね。きっと、今後の良い経験になると思います。頑張ってください。
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